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田村 宗顕(たむら むねあき、天正2年(1574年)? - 正保5年(1648年)?)は、陸奥国の戦国大名。田村氏顕の子で、伯父の田村清顕の養子となった。田村定広(片倉定広)の父。 == 生涯 == 田村氏当主の清顕が1586年に嫡子のないまま没すると、家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達氏(清顕の娘・愛姫が伊達政宗の妻)と相馬氏(清顕の妻・於北が相馬盛胤の姉妹)の勢力争いで分裂した。相馬義胤が三春入城を企てて失敗するなどの騒ぎがあったが、伊達政宗によって宗顕が田村氏の当主とされ、家中の混乱は収まった。政宗から「宗」の字を与えられて宗顕と名乗る。 1590年、小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったが、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されてしまう。その後、牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲し、子の定広は片倉氏を称した。宗顕の子孫は現在まで片倉姓を称している。田村氏の名跡は宗顕の死後、1652年に伊達忠宗(政宗と愛姫の嫡男)の三男宗良が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田村宗顕 (戦国大名)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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